賀川豊彦の著作 忍者ブログ
賀川豊彦の著作
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

IMG_0129.JPGIMG_0170.JPGIMG_0166.JPGIMG_0256.JPGIMG_0171.JPG







賀川豊彦の自伝小説は『死線を越えて』3部作の他に1939年の『石の枕を立てて』があり、計4部作ともいわれる。主人公はすべて「新見栄一」である。さらに『小説キリスト』にも賀川自身が反映される記述が多くある。
PR
IMG_0129.JPG 賀川豊彦が東京の改造社からベストセラー『死線を越えて』を発刊したのは32歳の1920年10月だった。プリンストン大学へのアメリカ留学から神戸に 帰国して3年。大阪市の「有限責任購買組合共益社」と神戸市の「有限責任神戸購買組合」を相次いで設立、12月には播磨造船の労働組合長に推され、社会運 動家として八面六臂の大活躍。貧民救済を続けていた一牧師から一皮も二皮もむけていた。

『死線を越えて』の元となる『鳩の真似』を書き始めたのは葺合新川の貧民窟に入る前、三河蒲生郡で肺結核の療養中であった。まだ20歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづったものにすぎない。

AMAZON.COMで購入できる賀川豊彦関連の中古本



IMG_0170.JPG『死線を越えて』の爆発的売れ行きに、改造社は賀川に第二段の執筆を要請した。いわゆる「続編」である。貧民窟からプリンストン大学への留学。そして労働運動への目覚めが書かれる。『太陽を射るもの』という副題は、賀川がニューヨーク郊外のモントクレアの公園にあるインディアンの銅像に由来する。

インディアンたちは強い意志を持つ勇敢な子供を育てるために、太陽を射るほどの弓の訓練をさせた。選ばれて酋長になるためには、なおさらであった。青年賀川はその時、日本社会の建て直しを図るのは自分だと考えたに違いない。(伴 武澄=2009年1月18日)

AMAZON.COMで購入できる賀川豊彦関連の中古本


IMG_0165.JPG賀川豊彦『雲水遍路』(1926年、改造社)

1925年から全米学生聯盟の招待で、訪米、その後、ヨーロッパを回り、イスラエルまでを旅した旅行記である。




IMG_0180.JPG賀川豊彦『幻の兵車』(1934年、改造社)










IMG_0063.JPGこの書は昭和10年11月6日、東京の改造社から発行された。この年2月かた7月まで、賀川はオーストラリアに講演旅行をなし、12月には中山昌樹とともに、アメリカ・キリスト教連盟及びアメリカ政府の要請により渡米し、主として協同組合運動について指導したのであった。本書は「家の光」に昭和9年1月号から同10年12月号に至るまで24回に亙って連載されたものをまとめたものである。


[1]  [2]  [3]  [4

忍者ブログ [PR]