賀川豊彦の著作
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『死線を越えて』の元となる『鳩の真似』を書き始めたのは葺合新川の貧民窟に入る前、三河蒲生郡で肺結核の療養中であった。まだ20歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづったものにすぎない。
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文学全集の出版や有名人の講演とタイアップした出版など日本の出版界をガラリと変えたとされる山本実彦が創刊した月刊誌「改造」はまだ黎明期にあった。 「改造」創刊号が世に出たのは1919年4月。定価60銭。中央公論のような総合雑誌を目指した。安部磯雄、与謝野晶子、尾崎行雄、土井晩翠らが執筆し、 幸田露伴の名作『運命』も掲載されていた。
当時、言論界ではまだ無名の賀川豊彦の連載が始まったのは10号目に当たる1920年新春号である。「神戸におもしろいキリスト教の牧師がいる」と賀川 を山本実彦に紹介したのは大阪毎日新聞社記者の村島帰之だった。村島は奈良県生まれで賀川より三歳年下。大阪本社で地方版を編集していた時に知り合い、二 人で労働組合友愛会関西同盟を発足させた。いわば労働組合運動の同志でもあるが、葺合新川における賀川の献身的な活動にほれ込んでいた。
「ますらおのごとく 村島帰之先生の生涯」(学校法人平和学園設立20周年記念出版)によると「友愛会関西同盟の理事長に賀川がなり、村島が理事に就任 している。神戸支局時代に川崎造船所で労働者1万6000人が指導し、日本初の大規模サボタージュを決行した。友愛会の幹部としてサボタージュを指導する 一方で、サボタージュの記事を特だねとして書いたのだからまさに自作自演である。島村は「サボを『同盟怠業』と訳した」と備忘録に残した。「怠けること」 を「サボる」というようになったのは島村が生み出した新語だったようである。
しかし、出来あがった原稿の評価はさんざんだった。文章はへただし、物語もあまりにも通俗だというのが編集局内での評価で、ほとんど「ボツ」になりかけた。一人山本実彦だけは違って「これはおもしろいかもしれない」と多くの反対論を押し切って掲載にゴーサインを出した。
とにかく『死線を越えて』は1920年1月号を飾った。反響は編集局の大方の予想通りで論壇からは「改造は素人に書かせている」などの酷評を浴びせられ た。それでもくじけなかったのが山本実彦たるゆえんだろうか。山本実彦は『死線を越えて』の読者層は雑誌「改造」と違うと判断し、連載は4回で打ち切って 単行本として出版することに方向転換した。
賀川は島村に「単行本にしようという話がある。どうしようか」と相談を持ちかけた。島村は雑誌「改造」での散々な評判を聞いていたので「売れないだろうからやめた方がいい」と乗り気ではなかったようだ。
100万部を超える『死線を越えて』の売り上げは、創立間もない山本実彦の改造社の経営にとって多大な貢献をしたことになる。賀川にとっても山本実彦との出会いこそが、その後の人生を決定付ける大きな意味合いとなった。
賀川はそれまで詩集『涙の二等分』(福永書店)のほか、『貧民心理の研究』(警醒社)など研究書を何冊か出版しているが、まだ言論人としての地位を得ていたわけでなく、『死線を越えて』はアマチュア作家の誕生として位置付けられていたにすぎない。
ベストセラー作家としての知名度と現在の価値に換算して10億円を超えるとされる巨額の印税はその後の賀川の社会活動における大きな支えとなった。『死 線を越えて』がなかりせば、改造社のその後もなければ、賀川の労働運動や消費組合運動も違った方向に進んでいたかもしれない。農村部に病院を建てていった 組合病院もなく、医療のあり方も変わったものになっていたかもしれない。(伴 武澄=2003年05月07日)
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