賀川豊彦の著作
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賀川豊彦が東京の改造社からベストセラー『死線を越えて』を発刊したのは32歳の1920年10月だった。プリンストン大学へのアメリカ留学から神戸に 帰国して3年。大阪市の「有限責任購買組合共益社」と神戸市の「有限責任神戸購買組合」を相次いで設立、12月には播磨造船の労働組合長に推され、社会運 動家として八面六臂の大活躍。貧民救済を続けていた一牧師から一皮も二皮もむけていた。
『死線を越えて』の元となる『鳩の真似』を書き始めたのは葺合新川の貧民窟に入る前、三河蒲生郡で肺結核の療養中であった。まだ20歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづったものにすぎない。
『死線を越えて』の元となる『鳩の真似』を書き始めたのは葺合新川の貧民窟に入る前、三河蒲生郡で肺結核の療養中であった。まだ20歳になっていなかった。明日の命もないことを宣告され、小説風に自らの生い立ちをつづったものにすぎない。
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『死線を越えて』の爆発的売れ行きに、改造社は賀川に第二段の執筆を要請した。いわゆる「続編」である。貧民窟からプリンストン大学への留学。そして労働運動への目覚めが書かれる。『太陽を射るもの』という副題は、賀川がニューヨーク郊外のモントクレアの公園にあるインディアンの銅像に由来する。
インディアンたちは強い意志を持つ勇敢な子供を育てるために、太陽を射るほどの弓の訓練をさせた。選ばれて酋長になるためには、なおさらであった。青年賀川はその時、日本社会の建て直しを図るのは自分だと考えたに違いない。(伴 武澄=2009年1月18日)
インディアンたちは強い意志を持つ勇敢な子供を育てるために、太陽を射るほどの弓の訓練をさせた。選ばれて酋長になるためには、なおさらであった。青年賀川はその時、日本社会の建て直しを図るのは自分だと考えたに違いない。(伴 武澄=2009年1月18日)
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